日本中の車好きが熱狂したレース・グループAにおいて、「最速・最強の車は何か?」と聞かれればほとんどの方が迷わず、日産・スカイラインR32GT-Rの名を上げるはずです。
今回は、グループAでのすさまじい戦績を振り返りつつ、歴代GT-Rのみならず他の国内外スポーツカーを旧式に追いやった怪物マシン、3代目スカイラインR32の「伝説」を熱く語っていきます。
目次
そもそもグループAって何?
往年のレースファンには「釈迦に説法」かもしれませんが、グループAとは本来レース名ではなく、1985年から1993年まで全日本ツーリングカー選手権(JTC)で採用されていた、競技車両のレギュレーションのことを指します。
エントリーできるのは、市販車に改造を施したものに限定され、連続する12ヶ月で5,000台以上(1992年以降は2,500台)生産かつ座席が4つ以上存在し、外観はスポイラーやエアロなどを含め改造不可であり、ノーマル形状を保っていないと承認されません。
エンジンについては、量産車の原形が保たれていれば研磨・加工やブーストアップ、メーカー公認パーツによるチューニングやリミッターカットも認められていたため、量産車よりかなりのパワーアップが可能です。
ただし、排気量によって3つにクラス分けされ、タイヤサイズの細かい規定や最低重量がクラスごとに決まっていたため、タイヤやベース車両のポテンシャル以上のエンジンチューニングは、必然的にできないようになっていました。
パワーはともかく、外見的には自分の愛車や街で見かけるクルマたちが主役ということもあり、絶大な人気を博したグループA自体もはや伝説的レースと言え、1993年富士スピードウェイで開催された最終レースには、94,600人ものファンが詰めかけました。
R32登場前夜である1989年までのグループA情勢
成績次第でベース車の売れ行きが左右するグループAには、国内外の自動車メーカーが参入しており、1985年の第一回JTCにはトヨタ・AE86レビンやホンダ・シビックSiがDiv.1に、Div.2では日産・シルビアS12がVWシロッコと対峙。
そして、最速クラスのDiv.3ではBMW635とR30スカイラインが対決しましたが、日産は1勝もできずじまいだったうえ、国際格式レースである最終戦のインターTECへ電撃参戦したヨーロッパ王者、ボルボ240ターボに圧倒的な力の差を見せつけられます。
このことが日産のレース魂に火をつけたのか、翌年には元F1ドライバーである鈴木亜久里を擁し、シリーズチャンピオンを獲得しますが、インターTEC再来日したボルボに2連覇を許してしまいます。
翌年は、トヨタ・トムスの投入したMA70スープラがデビューウィンを飾り、日産もR31スカイラインのエボリューション・モデルGTS-Rで参戦しますが、「日本グループAを脅かす黒船」と称された、シエラRS500の牙城を崩せませんでした。
スカイライン・スープラ・スタリオン・シエラの4車種の淘汰された1988年は、グループAにとってのターニングポイントで、前年度あたりから白熱してきたワークス戦争についていけなかった三菱・スタリオンがまず脱落。
この年、クラス名の改編と共に国際自動車連盟が定めるレギュレーションが一部改正されたことにより、最低車両重量が大幅に増えてしまったスープラも苦戦を強いられ、事実上日産VSフォードの様相を呈します。
ニスモワークスのR31は、開幕2連勝と絶好のスタート切りながら、自力でシエラに及ばず残り4戦は勝てずじまい。
翌年には、「日本一早い男」星野和義が乗るカルソミックスカイラインが、全6戦中4度のPPを獲得するも1度しか勝てませんでしたが、長谷見昌弘を擁するリーボックスカイラインは3勝を挙げシリーズチャンピオンを獲得。
しかし、1987年から世界選手権になった本番の最終インターTECでは、またもやシエラにスカイラインは勝つことができず、イライラさせられたのを覚えています。
ライバル・シエラを圧倒すべく1990年に初参戦!
前年度までのイマイチ煮え切れない成績に対する、スカイラインファンのストレスを銀河系のかなたまで吹っ飛ばすことになるR32GT-Rは、1990年西日本サーキットで初お目見えしました。
「グループAで圧勝する」ために開発された、最強GT-Rの復活を一目見ようと詰めかけた観衆を前に姿を見せたのは、星野・鈴木ペアが駆るカルソニックスカイライン(インパル)と、長谷見・オロフソンのリーボックスカイライン(ハミタ)の2台。
同年、国内勢ではスープラが参戦していたものの、トヨタが当時ワークス活動を停止していたため事実上試合放棄状態であり、R32の敵は積年のライバル・シエラ(なんと7台もエントリー!)だけでした。
しかし、いざ開幕すると両者の力の差は歴然でPPを獲得したインパルと、3位に付けたシエラRS500とのラップタイム差はなんと1,8秒!、正直周回数100以上2時間に及ぶ長丁場のJTCにおいて、この差は正直絶望的です。
事実、決勝に入ってもインパルはすさまじい勢いでトップを独走し、レースがまだ4分の1しか消化していない時点で、2位以下をすべてを周回遅れにするとそのままポール・トゥ・ウィン、2位にリーボックが入る1・2フィニッシュを飾ります。
以降、グループAにおける「ポール・トゥ・ウィン」はR32の代名詞と化し、これまでどうしても海外勢に勝てなかった最終第6戦インターTECまで、すべてR32がPP獲得・優勝を決める、「完全制覇」を果たすことになります。
しかも、ハセミがリタイアした第4戦以外はすべてR32の1・2フィニッシュ、オブジェクトT(2台出しのシエラを撤収)がR32を導入した翌第5回大会では、表彰台が精いっぱいだったシエラを完全に駆逐、表彰台をR32が独占したのです。
ちなみに、シリーズチャンピオンは6戦中5勝を挙げたインパルの星野和義、ハセミは得意の鈴鹿で1勝を挙げるにとどまっています。
R32勢が独占!ワンメイク状態と化した晩年
まさしくR32の独壇場と化した前年大会を受け、まずトヨタが白旗を上げてスープラをDiv.3から撤収、7台エントリーしていたシエラも大幅に数が減り、1991年大会開幕戦では2台が参加したものの、続く第2戦からはFETのみという寂しい陣容となりました。
一方のR32は、インパル・ハセミ・オブジェクトTに、「ドリフトキング」こと土屋圭市擁するタイサンが加わり、4台体制でフル参戦しました。
初戦こそFET・シエラが意地を見せ表彰台を確保しましたが、1台きりになった第2戦では大惨敗を喫し、以降も全くR32の背中すら見えない状態に。
そしてついに、最終第6戦インターTECでFECはシエラを見限りR32へ鞍替えしたため、スポット参加で来日していたCMS Swedenのシエラを除くと、Div.1はR32のワンメイク状態に。
この年もR32が全戦全勝、前年度チャンピオン・星野の連覇が期待された1991年シリーズですが、第2戦でインパルがリタイアするという波乱が響き、ハセミの長谷見昌弘が前年度の雪辱を果たしチャンピオンの座に就きました。
「R32強し!」を決定づけた91年大会ですが、「グループA」が終焉へ向かう序章になってしまったことを否めず、翌92年大会は前年の4台と終盤から鞍替えしたFETに、ニスモ・HKSが加わった、「R32によるR32のためのレース」にJTCは変貌してしまいます。
レースファン(当時の筆者も含め)は現金なもので、R32が海外勢を圧倒する姿に熱狂してはいましたが、シエラを始めとする「アンチ」が存在しないJTCは、巨人・阪神戦がないプロ野球のようなものに感じられ、イマイチ盛り上がりに欠けました。
いつ見てもトップを快走するのはR32、反対に殿を務めるのもR32という絵図は退屈極まりなく、同様のことがBMW・M3によるワンメイクだったDiv.2、シビックとレビンによる一騎打ち状態のDiv.3にも言えました。
長谷見昌弘が2年連続でチャンピオンに輝きシーズンが閉幕する頃、「こりゃグループAも潮時かな?」という筆者の予感は的中、94年からFIAクラスⅡ・ニューツーリングカー(2.0Lエンジン搭載の4ドアセダン)への移行が決定します。
当然と言えば当然、グループAとは国内外の自動車メーカーが威信をかけて開発した量産車をベースに、ワークスチームなどが厳しい既定の中でチューンナップ、熾烈に速さを競い合う「晴れ舞台」であるはず。
しかし、あまりにもR32が強すぎたため、「グループA」というレギュレーションそのものが全く機能せず、文字通り一人勝ち状態に陥っていたのです。
なお、グループAカテゴリーとして国内最後のシーズンである93年大会では、F3000でのクラッシュの影響で第2戦を欠場した星野のパートナー、影山正彦がチャンピオンの座に就きました。
なぜR32はグループAで無敵を誇ったのか
1990年の初参戦から1993年のラストシーズンまで、開催された「29戦・全勝無敗」という金字塔を打ち立てたR32は、なぜそれほどまでに強かったのでしょうか。
その秘密は稀代の名機であり、R33・R34へと引き継がれることになる「RB26DETTエンジン」が持つ、当時の専門家やマニアからオーパーツ(時代にそぐわない部品)と言割れていた恐るべき性能と、日産・開発陣のちょっとした工夫。
そして、最強・RB26DETTの圧倒的なパワーを活かす、最新鋭のパワートレインを始めとする強靭なボディー構造に、その秘密は隠されています。
グループAで圧勝するために開発されたRB26DETTの存在
日産の開発陣はまず、ライバル・シエラを上回る650PSを、「軽くクリアする」レベルの出力を目指しそれを実現、その結果R32は当時世界最速の名をほしいままにしていた、ポルシェ911のニュルブルクリンクレコードを、真っ向勝負で破って見せます。
ラップだけではなく、0-400mタイムでもR32はポルシェ911をしのぎ、チューニングなしのリミッターカットだけで、250km/hの最高速を叩きだすポテンシャルの高さに、当時筆者は「こんな化け物エンジン量販車に積んで大丈夫か?」と、心配になったほどです。
また、当時を知るカーマニアなら違和感を覚えた方もいるでしょうが、このRB26DETTエンジンは排気量が2,6Lと非常に中途半端ですが、これはクラス分けをするにあたり「1.7をかけた数字を排気量とみなす」というターボ調整値の存在に配慮した日産の秘策。
実はR32が所属したグループAのDiv.1の場合、ター微調整値を反映させたうえでエンジン排気量が4,5L未満におさまれば、最低重量が1260kgまで許容されるうえホイール2インチアップと、10インチ幅タイヤの装着が可能となる有利な条件で参戦できるのです。
シエラを凌駕するパワーを引き出したうえ、係数1.7をかけても排気量がギリギリ4.42Lにおさまったことにより、多彩なチューニングが可能になっているこのRB26DETTは、グループAで圧勝するためだけに生み出されたと言っても過言ではありません。
電子制御トルクスプリット4WD「アテーサET-S」の採用
※画像はR35
次に日産が取り掛かったのは、ハイスペック「過ぎる」RB26DETTの強大なパワーにより、トランクション不足で扱いにくくなることが予想される、先代モデルで採用していたFRレイアウトからの移行でした。
開発陣が出した答えは、トランスファーに多板式クラッチを仕込み、ホイルスピンを起こした分の動力をフロントに回す、電子制御トルクハイブリット4WDシステム「アテーサET-S」の採用でした。
開発の最終段階で、アテーサET-Sが組み込まれたプロトタイプを事実を伏せたまま、鈴木亜久里にテスト走行させたところ、「この車どうなっちゃったの?こんなトラクションかけられるタイヤができあがったの?」と、驚きを隠せなかったという逸話まで存在します。
世界最高峰のステージで活躍した鈴木亜久里も驚かせる、FRレイアウト車並のニュートラルな挙動を実現したアテーサET-Sと、ゼロヨン加速で10秒台前半をたたき出す「直線番長」RB26DETTは、R32が伝説となるうえで不可欠だった「究極の組み合わせ」なのです。
正直、バブル全盛期で景気が良く日産もワークス事業に、多額の資金を割く余裕があったからこそ誕生したのがこのモンスターマシンであり、販売開始から5年間で4万3千台あまりを売り上げたとはいえ、R32が採算ベースに乗っていたかどうかは甚だ疑問です。
海外レースでも圧倒的な実力を発揮!
出典:makeup-info
R32は国内だけでなく、国外のレースにも積極的に参戦し、1990年11月にはグループAマシンによるマカオGP・ギアレースをカストロールスカイラインが制覇。
また、ベルギーで開催される世界3大耐久レースの一角、スパ・フランコルシャン24時間レースに出場し、1990年はグループNクラスの表彰台を独占しました。
このグループNというカテゴリー、前述のグループAと「市販車ベース」という点では共通ですが、改造範囲がより狭く限定されるため、ベースとなる市販車の性能が勝負をより左右します。
この年、名実ともにR32は「市販車最強」という伝説を作り、日産は自身が掲げていた901運動を、R32という形で具現化することに成功したのです。
ちなみに、1991年も前年に続きグループNクラス優勝しただけでなく、Gr.Aクラスでは日産ワークスから送り込まれたZEXELスカイラインが、2位以下を20周以上も引き離し総合優勝を果たすという、海外R32ファンの間で語り草である「最強伝説」もあります。
また、91年度の初参戦時あまりにもR32が強すぎたため、翌年からはGT-R というだけでなんと90kgものウェイトハンデが課せられた事実も、R32が持つ驚愕の伝説と言えるのではないでしょうか。
R32は誰でも乗れる伝説の車!
1990年代前半、国内外のグループA・Nで最強の名をほしいままにしていたR32は、まさに伝説と呼ぶにふさわしい名車中の名車ですが、スペック的に大差ない量産モデルが平気な顔で市販されていた事実にも驚きです。
1998年の販売開始当時、約450万円だった新車価格は決して安いとは言えませんが、ライバルであるポルシェ911や、R32登場まで無敵を誇っていたシエラR500に比べれば、半分以下の値段設定です。
また、JTCにおけるリタイヤ数の少なさや、国際的耐久レースで果たした輝かしい戦績でわかる通り、軟弱と言われていたボディー剛性も向上したため、メンテナンスさえ怠らなければ長期間・長距離での使用に十分耐えうる、市販車としての最低基準は満たしています。
さらに、ほぼレース専用設計と言えるRB26DETTですが、他の高スペックエンジンよりパワーバンドが幅広く扱いやすいのが特徴で、低速トルクがスカスカなためコツをつかまないとすぐエンストする、フェラーリのようなじゃじゃ馬でもない。
加えて、電子制御4WDシステムアテーサET-Sにより、通常速度帯での走行ならスムーズかつスピーディーなコーナリングを、ドライビングテクニックの優越に関わらず、誰しもが実感できます。
誰もが買えて、しかも快適にハイスペック走行することができる「伝説の車」という点が、R32の本当の凄みなのではないでしょうか。
BNR32は無敵の帝王
グループAにおいて、「29戦29勝」という不敗神話を築き伝説となったR32は、前述した通りグループNでもすさまじい戦績を残していますが、実は1度だけ勝利を逃しています。
91年に開催された筑波筑波9時間耐久レースで、三菱・ギャランVR-4に優勝をさらわれたのですがR32がスゴイのはその後で、翌年すぐに日産はブレンボ製キャリパーを装着した、R32Vスペック&VスペックN1を投入。
再び連勝街道を突っ走ったR32は、生涯最後のレースとなった95年の開幕戦において、なんと後継R33のデビュー・トゥ・ウィンを阻む、グループN通算28勝目(29戦中)を挙げるという離れ業を成し遂げます。
こうして、R32は「無敵の帝王」というイメージを残したまま、レースシーンから姿を消すことになるわけですが、R32こそ「伝説のR」といまだに言われる衝撃的なエピソードとして、当時の喧騒を筆者も鮮明に覚えています。